暑中見舞い
『暑中お見舞い申し上げます。突然ですが、告白します。私、勝原くんのことが好きでした。』
一葉の絵ハガキにしたためられた短い文章。それにもう一度、目を通してから、勝原久紀は夏の高い青空を見上げた。
今、久紀がいるのは、送られて来た絵ハガキの風景に似た牧草地で、東京にはない心地よい風が身を撫でていた。
緑の大地を真っ二つにするように一本の道路が伸び、青空には湧き立つような白い雲――それ以外のものは存在さえ許されないみたいに皆無だ。
都会のコンクリート・ジャングルとはまるで違う、大自然に抱かれたような開放感に、これまでになくリラックスしている自分がいることを久紀は実感していた。
絵ハガキの差出人の名前は佐々木涼子。今年の春に卒業した高校の同級生だ。
涼子とは三年間、同じクラスだったものの、あまり喋った記憶がない。大人しくて目立たない印象の少女――というのが久紀の知る佐々木涼子だった。
その涼子から突然の暑中見舞い――いや、遅れて来たラブレターと言ってもいいだろう。なぜ、今になって、こんなものが。
久紀は大学受験に失敗し、この春から予備校に通っている。
一方、涼子は都内の短大に合格したらしいが、突然、父親の仕事の関係で岩手に引っ越すことになったと聞いていた。
小学生や中学生じゃあるまいし、一人で東京に残って短大に通うことだって出来たはずだ。どうして、親と一緒に岩手へ行こうと思ったのか。もちろん、涼子の家庭の事情を知らない久紀が無責任に言えることでもないが、その噂を聞いたとき、不可解さを覚えたのも事実だ。
それ以来、佐々木涼子の名前をすっかり忘れていた。絵ハガキが届くまでは。
だから余計に分からなかった。なぜ今になって告白みたいな真似をしたのか。
涼子の真意を確かめてみたい――久紀は衝動的にそう思った。
気がつくと東北新幹線に乗っていた。我ながら呆れるくらいの行動力である。電話や手紙で尋ねることだって出来たはずなのに。
久紀としては、ほとんどの学生が夏休みを満喫しているこの時期、連日の夏期講習には飽き飽きしていたところでもあったので、ちょっとした小旅行も兼ねてみた――というのが自分に対する言い訳でもある。
「それにしても……」
道は果てしなく続くばかりで、一向に目的地が見えて来ない。次第に一人旅を楽しむというよりも、到着できるのかという不安がもたげてくる。
発作的に新幹線に飛び乗った久紀は、どの駅で降りていいのかも分からず、とりあえず車掌に尋ねて、電車を乗り継ぎ、最も近いと思われる駅で下車した。
そこで再び絵ハガキの住所を駅員に見せて、たまたま通りかかったトラクターに運良くヒッチハイクさせてもらったのだが、運転していた農家のおじさん曰く、まだ十キロほど先とのこと。
仕事があるおじさんと途中で別れ、ひたすら歩き続けて来たものの、さすがに高校を卒業して以来、ロクな運動もしていなかったので、疲労が足取りを重くし始めていた。
スマホに着信があったのは、そのときだ。
「もしもし?」
自分でも笑えそうなくらい情けない声が出た。へばっている証拠だ。
『勝原?』
スピーカーから聞こえてきたのは、しゃがれたような女の声だった。高校のときの同級生だった須藤真由美だ。
中学からの腐れ縁でもある真由美は、久紀同様、やはり大学受験に失敗し、現在は同じ予備校に通っている間柄だ。ただし、元来が遊び人なので、真面目に進学をしようという気があるのかないのか甚だ疑問ではある。
「おう」
弱々しい返事で、久紀は応答した。
『ゼミ、どうしちゃったの? サボり?』
「ああ。オレ、二、三日休むわ。他のヤツらにもよろしく」
『マジでぇ!? もお、信じらんなーい! 今日、昼飯おごってくれるって言ってたじゃんか!』
約束を反故にされ、真由美は喚き声をあげた。久紀はスマホから耳を遠ざける。
「わりぃ、また今度な」
正直、疲れているところで勘弁して欲しい会話だったが、ドタキャンしたのは事実だし、車内ではスマホの電源を切っていたので、連絡も取らなかった非は久紀にある。
『どうしちゃったのよ、急に』
「いや、ちょっと用事が出来てさ」
久紀は言葉を濁す。同級生だった真由美は涼子のことをよく知っている。変な誤解を持たれたくなかった。
『用事って、何?』
「そりゃあ……用事は用事だよ」
『あたしに教えない気!?』
「そこまで話す必要性はねえだろ」
『こっちは昼飯を食い損なったのよ! ちゃんとした理由を述べない限り、許さないんだから!』
「何だよ、昼飯くらいで」
『ちょっとぉ! 昼飯くらいで、とは何よ? 自分で誘ったんじゃないの! こっちは楽しみにしてたってのに!』
「うっ……そりゃ、悪かったとは思っているけどさ……」
『で?』
「だから……」
『あたしの昼飯より大切な用事って、何なのよ?』
「………」
口では真由美に敵わない。
『勝原ぁ!』
久紀は心の中で舌打ちした。しつこい女だ。
「……岩手だよ。今、岩手に来てんだ」
『いわてぇ!?』
驚いたような真由美の声。無理もないだろう。昨日まで、そんなことは一言も話してなかったのだから。
『岩手って、まさか勝原……アンタ、もしかして……?』
これ以上、真由美と会話を続けるとややこしいことになりそうだった。
そのとき、久紀の目にぽつんと人らしき姿が飛び込んで来た。トラクターに乗せてくれたおじさんと別れて小一時間、久しぶりに見かける土地の人間だ。ここは天の助けとばかりに涼子の住所を尋ねてみようと足を向ける。
「じゃあな、真由美。帰ったら、この埋め合わせは必ずするから」
『ちょっ――勝原ぁ!? 待ちなさ――』
久紀は通話を切り、電源もオフにした。そして、こちらに背を向けて、何やら作業している人の所まで小走りで近づく。
「すみませ~ん、『塩谷農場』という所に行きたいんですけど……」
麦わら帽子にオーバーオール姿の人物に向かって、久紀は話しかけた。
何処まで続いているのか分からないような柵に、たった一人で白いペンキを塗っている。そばまで行ってみると、意外に小柄な人物だと分かった。
ペンキを塗る手を休めた麦わら帽子の人物が、久紀の方を振り返る。
「勝原くん……?」
それは麦わら帽子をかぶった同い年くらいの女の子だった。どういうわけか、口にしたのは久紀の苗字。
「えっ?」
久紀はその人物を見つめた。
相手は麦わら帽子を取ると、久紀に向かって微笑んだ。
「久し振りだね、勝原くん」
その人物こそ、絵ハガキの差出人――佐々木涼子だった。
「驚いた~、こんなところに勝原くんがいるんだもん」
涼子は久紀と並んで歩きながら、弾けた笑顔を見せた。
「こっちだって。全然、佐々木だって分からなかった」
「そお?」
久紀が持っていたイメージとは全く違う涼子がそこにいた。
高校時代は色白で、大人しく内向的な感じだったが、今、隣にいるのは真っ黒に日焼けした牧場の少女そのものだ。高校時代に肩まであったセミロングの髪が短く切り揃えられ、余計に快活さを増している。何より明るく振る舞う姿は、四ヶ月前からは想像できなかった。
「勝原くんは変わってないね」
「はははっ、進歩がないって言うか、何て言うか……」
「ううん、そんなことないよ。ちょっとは大人っぽくなったんじゃない?」
「そうかなあ」
「そうだよ。久しぶりに会った私が言うんだもん、間違いないって」
「佐々木の方がよっぽど大人っぽくなったよ」
「え~、逞しくなった、の間違いじゃないの?」
「それもある」
「ヤッだぁ~、ヒドぉ~い!」
久紀は肘で脇腹を小突かれた。お互いに笑い合う。
「――でも、どうしてここへ?」
涼子は屈託のない笑顔を見せながら尋ねた。
「あっ、うん。そ、それはさあ……」
あんな絵ハガキをよこした涼子の反応が意外と軽いことに、久紀は戸惑いを覚えずにいられなかった。もっとドギマギするような再会になるのかと想像していたのに、涼子は高校時代とは全く違った接し方をしてくる。それならそれで切り出し易いというものだが、逆に拍子抜けした部分もあった。
「佐々木、オレ……」
こっちが緊張してどうすんだ、と自分を叱咤しながら、久紀はズボンの尻ポケットから絵ハガキを取り出した。
「お前に会ってどうしようとか、何かを言おうとか、そんなことは全然、考えちゃいないんだけど、この絵ハガキを貰ったら、居ても立ってもいられなくなってさ」
久紀は絵ハガキを差し出した。それを受け取った涼子は、しばらく無言で眺めたが、唐突に返す。
「これ、私が書いたんじゃないよ」
「へっ?」
思いもよらぬ言葉に、久紀は口を半開きにしたまま、涼子の顔を見つめた。
「だって、字が違うし、それに消印を見て」
「消印?」
久紀は言われた通りに表の消印を見た。『原宿』と読める。
「は? 原宿ぅぅぅぅぅっ!?」
驚きの余り、裏返った声が出た。岩手にいる涼子の絵ハガキが、なぜ原宿から投函されたのか。
「勝原くん、騙されたんだよ。きっとこんなことするのは、真由美あたりね」
ゲタゲタと大口を開けて笑う真由美の憎たらしい顔が目に浮かぶ。
脱力した久紀は、その場にしゃがみ込んでしまった。歩き疲れたのもあって、もう二度と立てそうにない。
「く、くっそ~っ!」
真由美にまんまと騙され、遠く岩手まで来てしまうとは。自分の脊髄反射的な行動に、久紀は恥ずかしくて恥ずかしくて面を上げられなかった。
そんな元クラスメイトの姿を見て、涼子はクスクス笑っている。
「まあまあ、せっかく来たんだから、今日はウチに泊まって行きなよ。東京なんかじゃ味わえない、搾り立ての牛乳も飲ませてあげるから」
そう涼子に慰められて、久紀は立ち上がった。
涼子によると、彼女が住んでいる塩谷農場は、主に乳牛を育てている酪農牧場だそうだ。
塩谷というのは涼子の父の親戚筋に当たるとかで、元々は彼女の祖父が酪農家として成功したらしい。それを涼子の父が東京に飛び出して行ったために後継者がいなくなり、同じく酪農を営んでいた親戚が引き継いだのだと言う。
ところが涼子の父も望郷の念は捨てられず、娘がある程度、成長したことも契機となり、脱サラしてこちらへ戻ることを決めた。
ただ、まさか娘まで一緒に来ることになろうとは、さすがの父も思っていなかったようだ。今、塩谷農場は二世帯同居にプラス従業員という大所帯になった。
ちなみに、涼子の父が仕事を覚えたら、いずれ親戚たちは自分の牧場に戻るという。二つの牧場を掛け持ちするのは大変だったようで、片方を本来の後継者に返すのはやぶさかではないのだろう。
久紀は母屋で涼子の父や母、そして実質的に経営している親戚たちに紹介されることとなり、非常に緊張した。
娘を訪ねて、のこのこ東京からやって来た元クラスメイトに対し、彼女の家族たちがどんな反応を示すか、久紀はヒヤヒヤものだったが、拍子抜けするくらいフレンドリーな対応に驚いた。これが田舎特有のおおらかさなのだろうか。
その後、久紀は涼子に案内してもらいながら、牧場のあちこちを見て回った。
可愛い仔牛に癒されたり、搾りたての牛乳に舌鼓を打ったりしたが、それよりも驚いたのは涼子の明るさだ。高校時代の涼子とは、まるで別人みたいに思える。
「なあ、佐々木」
前に立って歩く涼子の背中に、久紀は呼びかけた。
「ん?」
振り向いた涼子の顔。なぜだか久紀はドキッとした。
「い、いや。ちょっと、訊いていいかな?」
「何を?」
「その……どうして短大を諦めてまで、こっちに来ようと思ったんだ?」
涼子は背中を向けたまま、しばらく無言になった。久紀は、悪いことでも訊いてしまったか、と心配になる。すると――
「どうしてだと思う?」
逆に涼子が尋ねてきた。
「えっ?」
久紀は戸惑った。
涼子は久紀と同じ十八歳。自立してもいい年頃だ。父親が牧場経営のために東京を離れることになったとは言え、それにわざわざ付いて行かなくてもいいだろう。ましてや短大への入学が決まっていたのだ。それを取り消してまでというのが分からない。受験に失敗した久紀からすれば、もったいないとしか思えなかった。
「……分からないよ。分からないから訊いたんだろ?」
意地悪な質問返しに、久紀は口を少し尖らせた。
涼子はおかしそうに笑う。
「よく夏休みにね、この牧場に来てたんだ。その頃はお祖父ちゃんも生きてて、牧場のことを色々と教わったわ。あの頃は楽しかったなぁ。何もかもが。あまりにも楽しかったから、私、お父さんが後を継がないで東京でサラリーマンをやっていることに怒ったこともあったのよ。牧場の娘なら毎日楽しく暮らせるのにって。だから、お父さんがサラリーマンを辞めて、お祖父ちゃんの牧場を継ぐって決心したとき、私、凄く喜んだんだ。だって、それが私の夢でもあったんだもん。牧場で暮らして行けるなら、短大を諦めるのに後悔なんてなかったわ」
「そうか。そうだったんだ。じゃあ、佐々木は夢を叶えたんだな」
「そういうこと」
「良かったな」
「ありがとう、勝原くん」
「そうだよな、これだけ美味い空気吸って暮らしていけるんだもん。佐々木の選択は間違ってないよ」
久紀はうなずきながら賛同した。
「いい所でしょ?」
「ああ、いい所だ」
こうして風に吹かれていると本当にそう思えてくる。
「じゃあ、勝原くんもここで暮らしてみる?」
「えっ――?」
思いがけない涼子の言葉。久紀は何と答えていいのか、口ごもってしまう。
すると涼子は、突然、笑い出した。
「ふふっ、冗談よ、冗談!」
「さ、佐々木ッ!」
久紀は自分の顔が真っ赤になったのを見られて、気恥ずかしくなった。
「ヤだ、ちょっとはその気になった?」
「な、何言ってんだよ! んなわけ、あるか!」
「あやし~い!」
「あのなあ!」
完全に涼子におちょくられ、久紀は益々、赤面した。やっぱり高校の頃とは違う――と言うよりは、真由美にはまんまと騙され、涼子にはからかわれる久紀自身に問題ありか。
母屋の方へ逃げるように駆けて行く涼子を追いかけながら、久紀は自分が何をしているのか分からなくなっていた。
土地のものをふんだんに使った夕食をいただき、満腹になった久紀は食後の散歩と洒落込んだ。
空には満天の星空が広がっている。やはり東京とは違う。夜になって気温も下がり、Tシャツ姿では涼しいくらいだ。
それでも星を眺める機会なんて東京にいる限り余りないので、牧草地にゴロリと横になり、全身に降りかかって来そうな星空を見上げた。
聞こえてくるのは虫の音だけ。火照った身体を涼風が撫でていく。このまま寝たら風邪を引くだろう。それでも、このまま身を委ねていたい誘惑に駆られた。
ウトウトしかけていると、牧草を踏みしめる音が近づいて来た。首をそちらへ向けると、やって来たのは涼子だった。
「ここにいたんだ」
「ああ」
涼子は隣に腰を下ろした。そして久紀と同じように大の字になる。
「私も好きよ、こうして星を見上げるの」
「オレ、初めてかも。こうやって寝そべりながら星を見るのって」
「きれいでしょ?」
「きれいだ……」
しばらく二人は無言で星を眺めた。短い時間であったような気もすれば、長い時間だったような気もする。いずれにしろ、それは星々の栄枯盛衰に比べれば、ほんの一瞬の瞬きに過ぎない。
やがて久紀の方が動いた。
「なあ、佐々木」
「うん?」
「オレ、明日帰るよ」
「えっ?」
久紀の言葉に涼子も動いた。
「何か突然来て、突然帰るみたいで、自分でもワケ分かんないんだけど、佐々木のご両親や牧場の人たちだって仕事があるわけだし、佐々木だってそうだろ? オレ一人、遊んでいるわけにはいかないよ。それにウチの親にも黙ったまま来ちまったしさ。さっき連絡入れたら、さすがに呆れてたわ」
「………」
「佐々木」
「ん?」
「悪かったな、あんなハガキを真に受けて」
「ううん。ちょっと嬉しかった」
「そ、そうか?」
「うん。懐かしかったよ」
「オレも」
「まだ卒業して四ヶ月くらいなのにね……」
「ああ」
「遠いんだなって思った。ここと東京って」
「そうだな」
「そう簡単には会えない距離なんだよね」
「まあ、同じ東京にいても卒業してから会ってないヤツなんて、結構いるけどな」
「それは近くにいるから会う必要がないんだよ」
「そうかな?」
「会おうと思えば、すぐに会えるじゃない? 岩手じゃ、連絡し合ってすぐってわけにはいかないもの」
「でも、オレはこうして来たぜ」
「だから嬉しいの」
「………」
二人はそのまま黙り込んだ。
星だけがひっそりと二人を見守っていた。
翌日、朝一番に絞った牛乳を駅近くにある業者まで運ぶというトラックに、東京へ帰る久紀も乗せてもらうことにした。
「すみません、お仕事中なのに乗せていただいて」
「この辺は東京と違って、車がないと不便だから。遠慮なく乗って」
涼子の父が運転するトラックの助手席に座ると、朝、姿を見せていなかった涼子が続いて乗り込んで来た。後部座席はないので、真ん中に詰めるしかない。
「何だ、涼子。お前もか?」
「うん。見送り」
「ふ~ん。それにしても久しぶりだな、涼子の女の子らしい格好を見るのは」
彼女の父が言う通り、涼子は昨日着ていたオーバーオールではなく、白いサマードレスを着ていた。小麦色に焼けた肌を除けば、久紀のイメージにある涼子に近い感じだ。
狭い運転席の中で、その体温を間近に感じ、久紀はドギマギした。隣に座る涼子もちょっと恥ずかしそうだ。
「もおっ、お父さん、やめてよね!」
「はっはっはっ! ――勝原くん、これからもときどき遊びに来なさい。たまには涼子の女の子らしい格好を見たいからね」
「はあ……」
「お、お父さん!」
受験に失敗して以来、父親との会話がない久紀には、こんなホーム・コメディみたいな父娘関係もあるんだ、と新鮮に映った。
トラックは一時間ほど走り、久紀が昨日降りたのとは違う駅へと到着した。
そこまで涼子とは言葉を交わさず、久紀はもっぱら彼女の父と会話した。
配送前に駅前で降ろされると、二人は乗車客もまばらなホームで電車を待つことになった。
次の電車まで十五分。それでも涼子と二人並んだまま、久紀は押し黙っていた。昨日はあんなに会話したはずなのに。
今日の涼子は昨日久しぶりに会った涼子とは違った。白いサマードレスという服装のせいだけではない。快活な牧場の少女から、昔の口数が少ないクラスメイトに戻ったような気がする。
もう一度、久紀は涼子に確かめたかった。自分のことをどう思っていたのかを。
だが──
尋ねるタイミングをつかみかねたまま、電車がホームに滑り込んで来た。
「あ、あの……」
「………」
電車の乗降口から吐き出され、吸い込まれてゆく人たち。刻は容赦なく待ってはくれなかった。
発車のベルが鳴る。
モヤモヤした気持ちとは裏腹に、久紀の足は列車へと乗り込んでいた。
見上げる涼子の瞳が心なしか潤んでいるように見える。
「佐々木……」
「………」
確かめるつもりで来たのに、何もしないまま帰ろうとしているような気がした。
(オレは何のために来たんだ……? 何のために……?)
列車のドアが閉まった。
涼子の口が動く――
『 サ ヨ ナ ラ 』
ハッとした久紀は、ドアのガラスを叩いていた。目頭が熱くなる。
白いサマードレスを着た涼子が、精一杯の笑顔を見せながら手を振っていた。
電車が動き出す。景色がゆっくりと流れ始めた。
――遠いんだなって思った。ここと東京って。
今さらながら夕べの涼子の言葉が重くのしかかる。もっと話すことがあったはずなのに。それを――
「佐々木ーッ!」
恥も外聞もなく、久紀は叫んでいた。
電車のスピードが増す。
見る見る涼子の姿が遠ざかった。
久紀の頬を涙が伝う。
やがて涼子が見えなくなり、駅が見えなくなった。
「佐々木……」
ガラスに頭をもたれかけるようにしながら、久紀は泣いた。
東京へ帰る新幹線の車中、久紀は夢を見た。
それは高校の頃の夢だった。何となく記憶にある。学園祭の前日。何年生のときだったか。
日が西に傾きかけた放課後、模擬店の出店準備に大わらわの久紀は、クラスメイトの真由美に図書室へ連れ出された。
「何だよ、真由美? もう時間ねーんだぞ」
久紀は不平を口にした。模擬店の企画者である久紀にはクラスの中心となって働く責任があったからだ。
だが、真由美はと言えば、そんなことなど全く意に介さない。
「ちょっとくらい構わないわよ。いいから、顔貸して!」
学園祭の準備で、こんな日に図書室を利用している者は皆無であった。無人の図書室に真由美と二人だけ。
「何なんだよ?」
苛立ちが久紀の語気を強めていた。
しかし、真由美は誰かを捜しているようだった。
「涼子、連れて来たよ」
すると本棚の陰から佐々木涼子が現れた。ややうつむき加減だが、時折、目線を上げて久紀の顔を見る。何やら緊張している様子だった。
「勝原、涼子が話があるんだって。――じゃあ、あたしは戻るから」
真由美はそそくさと図書室を出て行ってしまった。
「お、おいっ」
久紀は、どうしたものか、と涼子を前にして悩んだ。
取り残された二人の間に、気まずい空気が流れた。
「――な、何、話って?」
久紀はおずおずと尋ねてみた。普段、クラスでも大人しい涼子を前にすると、何だか久紀の方まで緊張してしまう。それに、このシチュエーションは――
ところが涼子はなかなか切り出せない様子だった。もじもじするばかりで、たまにチラッと久紀を窺う。
「なあ……?」
「………」
久紀は参った。用事がある相手が黙ったままではラチがあかない。
お互い向かい合ったまま、どれくらい時間が経過したか。
ついに久紀がしびれを切らした。
「悪いけど、明日の準備が残っているからさ」
そう言って教室へ戻りかけた。
「か、勝原くんっ!」
意を決したような涼子の上擦った声。見れば顔は紅潮して、心なしか身体が震えているようだった。
帰ろうとしていた久紀は足を止めた。
まるで涼子の胸の鼓動が、こちらにまで伝わって来るかのようだった。
「あの――」
次に涼子の唇が動きかけた瞬間、廊下から走って来る靴音が響いた。
「勝原ーぁ! やっぱり高橋たちがアンタを探してるぅーっ!」
確認するまでもなく、声の主は真由美だった。
図書室に戻って来た真由美は、その場の空気を敏感に察したらしく、急ブレーキでもかけたみたいに勢いを失った。
「――ご、ごめん、まだだった?」
真由美は気まずそうに涼子へ目線を投げた。涼子は首を振る。
「ううん、もういいの。ありがとう、真由美」
弱々しい笑みを見せながら、涼子は礼を言った。
そんな涼子の顔を見て、久紀は何だか胸が締めつけられる思いがした。多分、涼子は――
夢はそこで醒めた。
ずっと忘れていた出来事だった。どうして忘れていたのだろう。
久紀は窓際の席に座りながら、車外の景色が次々と東北方面へ消え去って行くのを感傷的に眺めた。
それはあたかも、風の悪戯で吹き飛ばされた、たくさんの絵ハガキに似ている。バラバラに飛んで行ってしまった絵ハガキを目に焼き付けておくのは難しい。
「佐々木……」
やがて新幹線は終点の東京駅へ到着しようとしていた。
東京に帰って来た翌日、久紀は一昨日の埋め合わせをするため、真由美を予備校の近くにあるファミレスに誘った。値段の高い品はもちろん、きっとデザートまでしっかり食われるだろう、と覚悟はしている。
本当は岩手との往復で予想外の出費をしたため、財布の中身は相当ピンチだ。
ランチの前に久紀は絵ハガキを取り出し、それを真由美に見せた。
「お前だろ、こんなこと書いたの?」
久紀は腹立たしさを隠しながら真由美を問い詰めた。
すると、真由美は絵ハガキを一瞥しただけで、久紀の方へ突き返す。
「あたしじゃないよ! ここに『佐々木涼子』ってちゃんと書いてあるじゃない。――へえ、涼子のヤツ、やっと勝原に告白したか」
「ふざけろ。佐々木はこんなの書いてないって言ってたぞ」
「あっ、やっぱり勝原、涼子の所に行ってたんだ! これを読んで、居ても立ってもいられなくなったってトコ?」
「い、いや、まあ――て、今はそういう話をしてるんじゃない! 何でこんな悪戯をしたのか訊いてるんだろ!」
「だーかーらー、あたしじゃないってば!」
「じゃあ、この消印は何だ? 『原宿』ってあるぞ!」
真由美は深いため息をついて、座席にもたれかかった。久紀に持って来させたドリンクバーのダイエット・コーラをストローでチューッと吸う。
「この前、涼子がこっちに遊びに来たのよ。勝原には口止めされてたけど」
「何だって?」
「卒業したばかりだけど、プチ同窓会ってことで、親しい何人かで渋谷とか原宿で遊んだんだ。涼子の引っ越しが急だったもんだから、ちゃんとした送別会もしてなかったし。きっとこれは、そのときに出したんでしょ」
「まさか……」
「第一、この字、涼子のじゃん――て、勝原が知るわけないか――あっ、そうだ! あたしも涼子から絵ハガキ貰ったから、見せてあげよっか?」
真由美は鞄から英語の参考書を取り出すと、栞代わりに挟んであった暑中見舞いを見せた。字を見比べてみると、確かに同じだ。
久紀の脳裏に、快活な牧場の娘に変身した涼子と図書室で告白をためらっていた涼子の姿がフラッシュバックした。
『暑中お見舞い申し上げます。突然ですが、告白します。私、勝原くんのことが好きでした。』
最早、真由美のからかう言葉も久紀の耳には入って来なかった。
また明日、予備校を休むことになりそうだ。ただし、今度は事前に連絡をしておこう。
夏はまだ終わらない。